イスラム教徒と共にムバーラクに立ち向かうコプト・キリスト教徒たち (al-Quds al-Arabi紙)
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20110206_143953.html
2011年02月05日付 al-Quds al-Arabi紙
■タハリール広場ではコプトもムスリムもムバーラクに立ち向かう2011年02月05日付『クドゥス・アラビー』
【カイロ】
エジプトで起きた前例のない抗議運動の拠点となっているカイロ中心部、タハリール広場には、ムスリム市民と並んでデモに参加し、共にムバーラク退陣を求めるコプト・キリスト教徒たちの姿があった。
コプトの青年ナーディルさん(23歳)は、英語で「ムバーラク時代に多くのコプトの血が流された。エジプトから出ていけ」と書いたプラカードを持っていた。ナーディルさんはAFPの記者に対し、「エジプトではここ数年でコプトに対する迫害がとても増えた」と語り、大晦日に23人の死者を出したアレキサンドリアの教会攻撃など、コプト・キリスト教徒を狙った最近の攻撃について指摘した。その上で、「ムバーラクは起きている事態を隠そうとしただけ。それでは解決にならない」と語った。
推計では[エジプトの]人口8000万人強のうち、6‐10%をキリスト教徒が占めるとされている。
コプト教会のトップであるシュヌーダ三世総主教(アレキサンドリア主教ならびに聖マルコ大主教管区総主教)は金曜日の晩にデモ隊に対し、政権打倒を求める激しい抗議運動から数日後に政府が示した「妥協」を思い起こすよう呼びかけていた。
イーハーブさん(41歳)は、「総主教はデモに参加しないよう我々に要請した」と言う。このデモはムバーラク打倒を求めて先月25日に始まり、国連の推計では今までに少なくとも300人が死亡、数千人が負傷している。
イーハーブさんは、「それでもわれわれは広場にやってきた。自分たちもここにいるぞというところを見せたいんだ」と言って、英語でこう書かれたプラカードを持って歩きまわっていた。「キリストはより良き生活を与えてくださるだろう。そのためにムバーラクよ、去れ」。
ナーディルさんとイーハーブさんは、活動家に世俗主義者、イスラム主義者と、実に多様なデモ隊の一部を成している。イーハーブははっきり言う。「ムバーラクの退陣後にイスラム主義者が政権を握る恐れはない」「ムスリム同胞団の政府が出来たら災難だ。だが、エジプトにはムバーラクと同胞団以外にも選択肢はある」。
また別のデモ参加者はガマール・ムバーラクに向けたプラカードを掲げていた。ガマールは長らく父ホスニーの後継者とみなされていたが、そのプラカードには「ガマールよ、父ちゃんに言え、コプトはお前を嫌ってるって」と書かれており、しばしば言われるようにコプトがみんなムバーラク支持なわけではないことを示していた。
最近、コプトの実業家でオラスコム・テレコムグループの社長であるナギーブ・サウィルス氏が、大統領が抗議運動に応えて約束したいくつかの改革は「エジプトにとって良いことであり、みんなが民主主義を求めている」「投資家たちにとって民主主義よりいいものはない。実業家として私が直面してきたあらゆるトラブルは、非民主的な国々の政府との間で起きたものだ」と明言した。サウィルス氏は資産25億ドルとも言われるエジプトきっての実業家である。
一方、タハリール広場では、多くのイスラム教徒のデモ参加者がコプトへの支持を表わそうとしていた。たとえばアフマド・アル=シャイミーさん(47歳)は「イスラム教徒+キリスト教徒=エジプト」と書いた上に、イスラム教徒とキリスト教徒の団結の象徴である十字架を抱えた三日月のマークを描いたプラカードを掲げ、「二つの宗教間を区別したくない」と明言した。
そして、「ムバーラクは、エジプトにはキリスト教徒との間にトラブルがあり、それを防げる適任者は自分だという考えを欧米に売り込もうとしている。だがそれは本当じゃない」と語った。最近の[アレキサンドリアでの]襲撃以来、いくつかの欧米諸国がエジプトにおけるコプトの置かれた状況に懸念を表明していた。
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(翻訳者:山本薫)
(記事ID:21377)
朝日新聞ではこんな記事がありました。
■カイロ行進、盛り上がれない コプト教徒の町・死者の町
http://www.asahi.com/international/update/0201/TKY201102010593.html
【カイロ=北川学、玉川透】エジプトの野党勢力が呼びかけた「100万人行進」で沸いた1日の首都カイロ。その騒がしさをよそに、少数派のコプト教徒や、極貧層が暮らす「死者の町」は静まりかえっていた。30年にわたるムバラク大統領の在任中、ひっそりと暮らしてきた人々は、固唾(かたず)をのんで政変の行方を見守っていた。■コプトの町
カイロの下町、ショブラ地区。原始キリスト教の名残を伝えるコプト教の中心地は異様な静けさに包まれた。
我々にはデモではなく、時間が必要だ――。前日の1月31日、地元の若者たちが、デモへの参加自制を呼びかけるビラを同地区にまいた。28日のデモに参加したコプト教徒が多数負傷、略奪や放火が横行し、ゼネストで銀行や病院などが閉鎖するなど人びとの暮らしを脅かしたことに憤りを感じたからだという。
コプト教徒の警備員レダさん(36)もビラを読んで、デモ参加を見送った。「ムバラク政権は打倒すべきだが、平和的に問題を解決してこそ、真の革命だ。政府も、秋の大統領選までに何らかの変化を打ち出すだろう。それまで見守りたい」と話す。
同地区の教会関係者も「教会が指示したわけではないが、住民同士の連帯が強いためデモに参加する人はほとんどないだろう」と言う。
民衆デモが起きた当初、十分な安全を確保してくれない治安・警察当局に対するコプト教徒の不満が、野党系のイスラム教徒や民主化を求める市民と結びつき、政権打倒の一翼を担うと期待された。
だが、ムバラク政権が倒れれば、最大野党勢力のムスリム同胞団などイスラム勢力が政治の中心に躍り出る可能性が高まる。そうなれば、少数派のコプト教徒は、新たな試練に直面する――。そんなジレンマが、彼らに慎重な姿勢を余儀なくさせている。
60代のコプト教徒の男性は「ムスリム同胞団は信用できない。彼らが政権に就いて生活がむちゃくちゃになるぐらいなら、ムバラク政権のままの方がマシだ」と漏らす。
コプト教徒の元軍人ファイズさん(60)も「イスラム教徒とは今もうまくやっている。急ぎすぎては何も良いことはない」と話した。
■死者の町
路上に放置された生ゴミが異臭を放ち、野良犬がうろつく。カイロ東部イマーム・シャファイ地区は、市内で最も貧しい場所のひとつだ。50万人もの住民が、13世紀以降に造られた墓地に暮らす。別名「死者の町」とも呼ばれる。
「何しに来たんだ!」。自警団を組織して道路を封鎖していた10人ほどの若者が、鋭い目つきで記者が乗った車をにらみつけた。ナイフや刀を持った者もいる。
無職レファトさん(50)の「家」を訪ねた。外壁の扉を開けると、中庭の奥に大理石の墓石が11基あった。墓地の所有者に頼まれ、25年前から墓守をしながら暮らす。
扉の脇にある3畳ほどの部屋の壁に、ジャンパーが2枚掛けてある。電気、ガス、水道はなく、唯一の家電製品の14型テレビは、拾ってきた車用のバッテリーで見る。
12年前に足の手術が失敗し、石工職人の仕事ができなくなった。松葉づえが手放せず、社会保障省から支給される月額70エジプトポンド(約975円)の年金が頼りだ。「独身だから何とか食えるけど、年をとったら不安。政府には増額をお願いしたい。もしも体が丈夫ならデモに駆けつけるのだが……」
反政府デモが始まったのは1月25日。地区ではこれまで一度も抗議活動は起きていない。無職アフマドさん(55)は、「みんな日々を生きるだけで精いっぱい。ムバラク政権は貧困対策を何もしなかったが、我々にはデモに行く余裕もないんだよ」と嘆いた。
◇
〈エジプトのコプト教徒〉コプト教は、紀元1世紀ごろからエジプトで独自の教義を発展させた東方教会系のキリスト教の一派。信者はエジプト人口(約8千万人)の約1割を占めるとされる。豚肉食や飲酒が許され、菜食だけが認められる断食などイスラム教徒とは異なる生活習慣を持つ。エジプト国民の大半を占めるイスラム教徒との間には教義の違いや少数派の権利などをめぐり潜在的なあつれきがあり、散発的な衝突が続いてきた。
2000年1月には、南部の町で焼き打ちなどがありコプト教徒約20人が死亡。昨年1月には、コプト教徒を狙った銃の乱射事件で7人が死亡。今年1月1日には北部アレクサンドリアのコプト教会前で自爆テロがあり、20人以上が犠牲になった。
このブログで過去に扱ったコプト系の記事と言えば、
■テロ警戒に治安部隊7万人 エジプト、コプト教礼拝で
http://d.hatena.ne.jp/navi-area26-10/20110109/p6
がありました。デモの前の記事ですが、ムバラクが何もしなかったとは思えないのですが…