エジプト:大統領任期を4年に短縮…3選は禁止―と日本。

http://mainichi.jp/select/today/archive/news/2011/02/27/20110227k0000m030080000c.html?inb=ra
 エジプトの憲法改正委員会のビシュリ委員長は26日、大統領任期を6年から4年に短縮、現行は認められている多選を制限し、3選を禁じる条項を新設することなどを柱とした改憲案をまとめたと明らかにした。ロイター通信などが伝えた。

 ムバラク政権崩壊を受け、暫定統治に当たる軍最高評議会は、改憲の是非を問う国民投票を2カ月以内に実施、その後の4カ月で大統領、国民議会(議会)選などを実施し、民政移管を進める方針。(カイロ共同)

しかし日本の場合内閣総理大臣の任期は決まっていませんから、かえってエジプトより劣っていると思えるのですが。やめたくなったらいつでもやめられるという逃げ道を総理に用意していることが、責任をもって政治を行う安定政権を日本が持つことから遠ざけている気がします。

日本の政治についてはこんな記事がありました。
【日の蔭りの中で】京都大学教授・佐伯啓思 名古屋「民主革命」の意味

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110221/elc11022103080000-n1.htm
2011.2.21 03:08

 この2月にはいって「民主化」や「民主主義革命」と呼ばれた出来事がふたつあいついだ。ひとつはエジプトの「民主化」であり、これは確かに世界的な意味をもつ大きな出来事である。もうひとつはかなりスケールは小さくなるが、名古屋の出直し市長選挙である。

 むろんこの2つを並べても特に意味はない。エジプトのムバラク政権崩壊は自動的に「民主化」を意味するかどうか現状ではまだ不確かであり、イスラム勢力の動向がカギをにぎる。だがいずれ議会主義への移行がはかられることは間違いなく、それ自体はさしあたり民主化と捉えられるだろう。もっともそれが社会を安定させるかどうかは不明である。

 一方「民主主義革命が起きた」あるいは「民主主義を名古屋名物にする」と豪語した河村たかし市長の再選は議会との対決、議会への強い不信に端を発したものである。民主主義とはこの場合、議会主義に対する、首長権限の強化として理解されている。世界史的にみれば、エジプトの「民主化」に比して取るに足らない名古屋市長選であるが、私がいまここで論じたいのは、この日本国内での「民主化」の意味である。

 名古屋の市議会にどのような事情があるのかはよく知らないが、現状でいえば、河村市長と市議会の対立は、10%の市民税減税と議員報酬の50%カットという市長の提案を市議会が拒否したことに始まった。そして、この対立を争点に一度は辞任し出直し市長選をはかった河村氏が圧倒的に勝利した。つまり、市民は市長提案を支持したことになる。

 この河村方式が無視しえない重要性をもつのは、それが名古屋に限らずかなり一般性をもったモデルになりうるからである。市民税減税と議員報酬のカットをセットとして議会と対決し、議会との対立を演出することで市民の支持を得る、という方式である。それを「民主主義革命」だという。民主主義を政治における「民意」の直接的な反映という意味に解すればその通りであろう。

 ただこの「革命」は、およそあらゆる「革命」がそうであるように、たいへんに甘美な毒を含んだものだ。それは大衆的なエネルギーを引き出して、それを支えにするが、大衆への依存は無限のポピュリズムに陥るか、もしくは大衆を利用した一種の独裁に帰着するであろう。大衆に媚(こ)びるポピュリズムにせよ、大衆を利用した独裁にせよ、民主主義の陥る最大の罠(わな)なのであって、そこにこそ民主主義の大きな欠陥があるというのが歴史の示すところであった。議会主義とは、この欠陥を是正するものだったのである。

 歴史的にいえば、議会主義と民主主義とは少し異なっている。この両者をいちはやく歴史の舞台に押し上げたイギリスは、もともと王権の国であった。その王が広く諸侯から意見を聞くために召集したのが議会であるが、そのうちに議会はしばしば王権と対立するようになる。さらにその議会に平民が参加することによって議会が「民主化」したわけである。かくて、議会こそが民主主義の砦(とりで)とみなされるようになる。

 イギリスの王権は世襲であるが、この王権を市民代表として選出したのがアメリカの大統領制であった。

 したがってアメリカのような大統領制の場合、民意はふたつの形に分割されて表出される。しかし大統領制の場合、市民はその人物、人格、指導力などによって大統領を選出するのであって、必ずしもひとつひとつの政策によってではない。

 アメリカにおいてもしばしば大統領と議会は対立するのだが、この対立はむしろ権力の分散であって、大統領に過度に権限が集中することを防いでいる。むろん、大統領と議会とどちらの方が「民主的」かなどと論じても意味はない。

 アメリカの大統領と日本の地方首長を並べてもこれも相違が大きすぎるのだが、それでも制度的にいえば、市民の直接選挙で選出される首長は大統領に近い。したがって、首長と議会が対立することは十分に想定できる。問題はこの対立が意味のあるものかどうかなのだ。

 なにやら「民主化」とか「民主主義革命」という名のもとに、深刻な政治の崩壊が進んでいるようにみえる。政治的争点の単純化、敵対勢力のわかりやすい特定化、それによる支持率の確保、この「民意」を背景にした権限の集中、といった政治である。これは、「抵抗勢力」なるものとの対決によって民意を調達した小泉政治から始まり、官僚と敵対することで選挙を制した民主党へと受け継がれ、そして、今日、議会と敵対する首長という形で地方政治に受け継がれているやり方である。いずれも政治的な争点が、もっぱら、抵抗勢力や官僚あるいは議会といった敵対勢力との対決そのものへと変形されている

 その結果、政治が本当の意味での「議論」によって推移するのではなく、対決するその姿勢そのものによって動かされてゆく。端的にいえば、政治はどうしても劇場化するほかない。もし現実に生じている事態がかくのごときものだとすれば、それは民主主義の進展どころか、衆愚政治という民主主義の罠(わな)への陥落というべきではなかろうか。確かに議会が何を議論しているかは見えにくい。だが、議会における議論や説得こそがまずは民主政治の基本であることは今でも変わりないのである。(さえき けいし)

分かりやすい敵を作ってそれを攻撃することで支持を得るって、若者向けのロックバンドのようですね。しかし日本の政治で現実的に起こっていることでしょう。この記事をよむとちょっと恐ろしくなります。