冷戦時「非核宣言」に反対=核保有の可能性排除せず−外務省見解・外交文書

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081222-00000003-jij-pol

 東西冷戦下の1959年2月社会党(現社民党)が国会決議を目指した「非核武装宣言」に対し、外務省が「わが国の安全保障に寄与するところは少ない」と反対する見解をまとめていたことが、22日付で公開された外交文書で分かった。

 当時の岸信介首相は、自衛のための核兵器保有憲法上可能との考えを表明。同省も将来の核保有の可能性を排除しないよう、国会対策などのため基本的な見解を準備したとみられる。

 見解は、非核を一方的に宣言しても、「周辺諸国が同様に核兵器保有しないとか、わが国に核攻撃を行わないとかの保証を伴わない」と指摘。「安全保障の確保という至上の外交目標の遂行に当たり、あらかじめ柔軟性を失うというような結果は避けるべきだ」としている。

非核を一方的に宣言してものくだり、同感です。

池田首相、米の核実験再開了解=ケネディ大統領が対応相談−首脳会談で・外交文書
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081222-00000002-jij-pol

 米国とソ連(当時)が核実験を自粛していた1961年6月、訪米した池田勇人首相(同)が、ケネディ米大統領(同)から翌年1月にも実験を再開する意向を伝えられ、国際世論対策の面で協力する考えを表明していたことが、22日付で公開された外交文書で分かった。首脳会談から約2カ月後、ソ連は実験を突然再開。米国も対抗して地下実験を強行した。日本政府は米側に「深い危惧(きぐ)」を示して抗議したが、実際は再開方針を了解していた

 東西冷戦下の軍拡競争で緊張が高まる中、米ソ両国は58年11月から核実験を自粛していた。一方で、双方とも自陣営に有利な条件で実験停止協定を結ぼうと、ジュネーブ核実験停止会議などの場で火花を散らしていた。

 61年6月20日に行われた日米首脳会談で、大統領は池田首相に対し「ソ連が実験を行っているか確かめる方法がない。このままでは米国が後れを取る可能性がある」と不安を吐露。「夏ごろには方針を決定しなければならない。再開せざるを得ない立場に追い込まれた点をどう説明したらいいか、意見を伺いたい」と切り出し、「決定の場合、時期は来年1月ごろになると予想される」と伝えた。

 これに対し、首相は再考を求めながらも、「再開を避けたい気持ちをソ連に迫り、それにもかかわらずソ連側が受け入れない事実を広く世界に示すことが必要だ」とアドバイス。「日本は核爆発の被害経験もあり、本件のPRについて国連などを通じて積極的に実施することも考えられる」と申し出た。

 23日の第3回会談でも、大統領は「ソ連のせいであることを周知させる努力をしてほしい」と再び要請。首相は「賛成するわけにいかないが、再開決定に追い込まれた立場は了解する。いずれにせよPRに努める必要がある」と応じた。

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ここら辺は外交的にうまくやったという事でしょうか。
<外交文書>米「核」寄港の容認を示唆 65年に佐藤首相
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081222-00000000-mai-pol

 65年1月佐藤栄作首相がマクナマラ米国防長官(肩書は当時)との会談で、核を搭載した米艦船の寄港を容認したと受け取れる発言をしていたことが、22日付で外務省が公開する外交文書で判明した。核の持ち込み問題で日米間に「密約」があったことをうかがわせる史料が、日本側にも残されていた。

 同月、首相として初めて訪米した佐藤首相は、13日にマクナマラ氏と45分間会談した。会談要旨によると、首相は中国が前年に行った核実験に触れ、「戦争になればアメリカが直ちに核による報復を行うことを期待している。(略)洋上のもの(核)ならば直ちに発動できるのではないかと思う」と述べた。マクナマラ氏は「洋上のものについてはなんら技術的な問題はない」と答えた。

 ただ佐藤首相は、日本の核兵器所有や使用には「あくまで反対である」と述べ、核兵器の日本の陸上基地への持ち込みは「発言に気をつけていただきたい」と否定的に語った。

 日米間の核問題に詳しい我部政明琉球大教授(国際政治学)は、有事には日本近海での米軍の核搭載艦船の迅速な行動を佐藤首相が望んだと解釈できる、と指摘。これらの艦船が補給などで日本に寄港することになり、「首相は、核搭載艦船が事前協議の対象外として寄港することを前提に話したとみられる」と分析する。

 また会談でマクナマラ氏は、「日本がその防衛産業のなしうるような軍事的援助をアジアの諸国に与えることはできないであろうか」と、日本の武器輸出の可能性を質問。首相は、日本が生産していた宇宙開発用ロケットに言及して「必要があれば軍用にも使うことができる」と述べた

 首相は「中共の核爆発の性質については昨夜(CIAから)説明を聞いた」とも発言。米中央情報局(CIA)が首相に中国の核実験の実態を説明していたことも判明した。首相がCIAに「ソ連中共の地上設備」の衛星写真を示されたことは首相自ら日記などで記していたが、その一端が具体的に分かった。我部教授は「日本の情報収集力のなさを知る米国側は、国際情勢での首相の独断的な理解や不用意な発言をなくすため、CIAの情報を与えていた」と解説する。

 99年に公開された米側史料では、日米両国は60年の安保条約改定の前に、核兵器を搭載した米軍艦船の日本寄港などは、条約の付属文書で定める事前協議の対象としないと、秘密裏に合意していたことが判明している。

 佐藤首相は74年、非核三原則の提唱などが評価され、ノーベル平和賞を受賞した。

 ▽鈴木量博・外務省日米安全保障条約課長の話 日米間に「核密約」はない。佐藤首相の発言は、戦時において、洋上からの米の核抑止力の提供に一般的な期待を表明したものだと考えている。【鈴木英生】

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余録:「底力」

時事通信も同様に書いてますね。
核の傘」迫る佐藤首相=ジョンソン大統領「保証する」−中国核実験後・外交文書
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081222-00000001-jij-pol

 外務省が22日付で公開した外交文書によると、中国による初の核実験後、1965年1月の日米首脳会談で、佐藤栄作首相(当時)が日米安全保障条約に基づき、日本が核攻撃を受けた場合に米国が核兵器で報復する「核の傘」の確約を迫り、ジョンソン大統領(同)が「保証する」と応じていたことが明らかになった。また、マクナマラ国防長官(同)との会談では、佐藤首相が「核による報復を期待する」と要請していたことも分かった。

 日米首脳がこの会談で米国の核の傘」を確認したことは、米側の公文書などで知られていたが、日本側文書でも裏付けられた

 首脳会談は65年1月12、13両日にホワイトハウスで行われ、大統領は初日の国務長官らを交えた全体会合の前に、佐藤首相を別室に招き入れ、約50分間話し合った。

 首相はこの中で、中国が64年10月に初めて原爆実験に成功したことに触れ、「日本は核武装は行わず、米国との安保条約に依存するほかない。米国があくまで日本を守るとの保証を得たい」と求めた。これに対し、大統領は「保証する」と一言で確約した。

 外務省は会談前に、「核兵力を含むあらゆる戦力の行使」を求める文書を用意していたが、首相はこうした言及は避けた。ただ、マクナマラ長官との会談では「戦争になれば、米国が直ちに核による報復を行うことを期待している」と明確な表現で要請海上施設を建設して核兵器を持ち込む構想まで披露し、同長官が「技術的な問題はない」と応じる場面もあった。

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NPT「言及避けたい」と日本=73年共同声明の舞台裏−外交文書
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081222-00000004-jij-pol

 1973年8月田中角栄首相(当時)とニクソン米大統領(同)による共同声明をめぐる調整で、日本の核拡散防止条約(NPT)の批准問題には触れないよう日本側が水面下で強く働き掛けていたことが、22日付で公開された外交文書で明らかになった。米側は日本の核開発を警戒していたが、批准反対論が国内で高まることを懸念する日本の主張を受け入れたニクソン大統領は首脳会談でも取り上げなかったという。

 NPTは、米ソ英仏中の5大国以外の核兵器保有を禁止した。日本は70年に署名したが、自民党内には核武装の選択肢を失うNPTへの反対論もあり、批准していなかった

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国際関係論で『ポスト冷戦期に日本は核武装するというケネス・ウォルツの「予想」が見事に外れたように、リアリズムでは日本の非核政策を説明できない』と言われたそうですが↓
国際情勢評議会さん
国際関係論―リアリズムと国内要因―
http://wolf66.blog106.fc2.com/blog-entry-104.html
生々しい発言ですね。

さらに昔の記事になりますが、その後のやりとりとして
<動燃再処理工場>マンスフィールド大使が稼働反対の米政権説得
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030924-00000034-mai-int

 1977年当時、核不拡散政策の一環として、茨城県東海村の動力炉・核燃料開発事業団(動燃、現核燃料サイクル開発機構)の東海再処理工場の稼働に待ったをかけたカーター米大統領が決意を翻したのは、着任したばかりのマンスフィールド駐日大使(故人)が「日米関係の将来に深刻な悪影響が出る」と説得した結果だったことが、このほど秘密解除された米政府文書などから明らかになった。

 「妥協を急げ」という大使からの機密公電を大統領自身が直ちに検討。「サイ(バンス国務長官)へ。マンスフィールドには、わたしが個人的に妥協決定を急ぐと伝えよ。急いで選択肢を示すよう、彼から福田(赳夫首相)に言ってもよい」との大統領の走り書きが公電の余白に残り、当時の生々しいやりとりが初めて公になった。

 ドン・オーバードーファー元ワシントン・ポスト紙東京支局長が、このほど出版した伝記「マンスフィールド上院議員」の執筆に際し、情報公開申請して秘密解除された米政府文書や、関係者インタビューから経緯の詳細が判明した。

 公開された多くの対日関係文書からは、経済大国として力をつけた日本をカーター、レーガン両政権が、親日家の大使の助言を受けて政治、安全保障も含め極めて重要な同盟国として扱い出していく様子が浮き彫りとなっている。

 77年に発足したカーター政権は同年4月、軍事転用の恐れのない核燃料サイクル研究促進など、不拡散を重視する7項目の新原子力政策を発表。地元の反対などに遭いながら完成間近だった動燃の再処理工場にも、核兵器の原料となるプルトニウムが抽出されることから、表向きは「非経済的」との理由で反対した。

 大使はこれに対し、問題は日米関係の将来を揺るがしかねないとみて着任翌月の同年7月、
(1)英、フランス、西ドイツ(当時)には再処理を認めながら、日本を信頼しないような対応はまずい
(2)日本が「死活的」と見るエネルギー事情に配慮すべきだ
――などと訴え、大統領に「妥協」を促した。(ワシントン共同)
毎日新聞)[9月23日19時27分更新]

しかし、
日本核武装論を嗤う
http://www.videonews.com/on-demand/291300/000918.php
ゲスト:吉田康彦氏(元IAEA広報部長)
によると(リンク先消えてたら、このブログ内に記事ありますので、検索してください)、

そもそもIAEAという組織が、戦後日本とドイツの核武装を防ぐことを最大の目的に結成された組織であることを、日本人の多くが正確に認識できていないのではないか

という事なので、核の傘ミサイル防衛で、防ぐしかないんでしょうね。しかし広報が日本人の多く正確に認識させるのが、すじじゃないかと思いますが。