ハラブジャの事件についても調べてみる。被害者はいても主犯はもういない…

tnfuk [today's news from uk+]さん
サダム・フセインの極悪非道な犯罪行為」から20年目、メディアは静かだった。
http://nofrills.seesaa.net/article/90571973.html
を読んだ(と言っても英語は飛ばしてますが…)、たしかに

毒ガス攻撃から20年、クルド人の町で追悼式典
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080317-OYT1T00336.htm

 【ハラブジャ(イラク北部クルド自治区)=福島利之】イラン・イラク戦争末期の1988年、イラクフセイン政権がイラク北部のクルド人の町ハラブジャを毒ガスで攻撃し、多数を殺害した事件から16日で20年を迎え、現地で追悼式典が開かれた。

 式典の参加者は、攻撃が始まった午前11時半過ぎに合わせ、黙とうをささげ、犠牲者の冥福(めいふく)を祈った。

 当時11歳で、両親と兄姉2人を失った電気技師ウシャラ・アブドラさん(31)は「ニンニクとリンゴが腐ったような毒ガスのにおいはいまだに忘れたことはない」と振り返った。また、町には今も後遺症に苦しむ人も多く、主婦ズベイダ・サデクさん(68)は「疲れるとすぐに息苦しくなり声が出なくなる」と、かすれ声で話した。
(2008年3月17日12時47分 読売新聞)

くらいしかなかったような。

AFPもかいてますね
イラク北部のハラブジャ村、旧政権による毒ガス攻撃から20年
http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2365410/2744562
しかしアンファル事件はフセインが命令を出した事を認め(クルド人がイランを支援していたから正当といっていたようですが)、
ケミカル・アリ(アリ・マジドまたはハッサン・アルマジド)について振り返ってみようかと。
http://d.hatena.ne.jp/navi-area26-10/20080301/1204387885
では、命令に従っただけで死刑では重過ぎるとも言われていましたが、2007/06の死刑判決が出た時もハラブジャについては関与を否定しましたね。

2006年くらいには被害者の声も伝えられていたのですが、
イラク化学兵器被害者協会が原爆展開く
http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/mideast/news/20060616k0000m040173000c.html


現地で告知された、イラクで初開催となる「原爆と人間展」のポスター

 イラン・イラク戦争末期の88年3月、イラクフセイン政権の化学兵器による攻撃で、自国北部の街ハラブジャの住民約5000人が犠牲となったハラブジャ虐殺。その被害者団体「ハラブジャ化学兵器被害者協会」と、広島、長崎の原爆被爆者らでつくる「日本原水爆被害者団体協議会」(日本被団協)が20日、イラク北部クルド地域のアルビルで、原爆・被爆の実相を伝える「原爆と人間展」を開く。

 クルド地域政府文化省の協力で実現する。イラクでの本格的な原爆展は初。被爆の惨状、後遺症で苦しむ被爆者の姿を写真や絵、証言で伝えるパネル約60点のほか、焼け焦げた「原爆瓦」などを展示。月末には、ハラブジャでも開催予定だ。

 被爆2世のジャーナリスト、玉本英子さん(39)=アジアプレス・インターナショナル所属=が2月に現地入りし、同虐殺の記念資料館「ハラブジャ・モニュメント」のイブラヒム・ヘウレマニ館長(43)らのメッセージを日本被団協へとつなぎ、実現した。

 虐殺で両親、兄弟3人を失った被害者協会のヒクメット・ファイードさん(35)は「不安定な国情下、後遺症を抱える被害者支援が忘れ去られている。被爆者から学び、事件の真相を歴史の中にしっかりと位置づけたい」と話す。また、田中煕巳・日本被団協事務局長(74)は「大量殺りく兵器使用を根絶する世界を、国際規範の中でどう実現していけるかを共に考えたい」と言う。

 イラクでは、被爆被害に対する関心は高く、クルド地域では、同虐殺は広島の悲劇に重ね「ハラブシマ」とも呼ばれている。【高尾具成】

毎日新聞 2006年6月16日 3時00分 (最終更新時間 6月16日 3時48分)

eye:「ハラブジャの悲劇」記念館焼き打ち 憤る住民の思い
http://mainichi.jp/select/wadai/graph/eye070920/


黒煙を上げるハラブジャ記念館。昨年3月の追悼記念日に犠牲者遺族が発電機に火を放ち、炎上した=2006年03月16日撮影、アマンジュ・ハリル記者提供

 「ハラブジャの悲劇」に聞き覚えがあるだろうか。事件が起きたのは88年3月16日。イラクの旧フセイン政権が同国北部のクルド人の町、ハラブジャを化学兵器で攻撃し、約5000人の住民が死亡したとされる。

 イラン国境まで15キロのこの町の入り口に、旧政権の残虐性を語り継ぐため03年に建設されたハラブジャ記念館が建つ。

 ◇空約束の政治家

 だがその記念館は今、焼けただれた無残な姿をさらしている。昨年3月16日、事件から18年の追悼記念日に、犠牲者の遺族らによって焼き打ちされたのだ。「背後でイスラム過激派が扇動している。住民には『だまされるな』と言いたい」。サルヘル館長(29)は地域政府当局の見解を繰り返す。

 だが、事件を取材した独立紙ハウラティのアマンジュ記者(27)は「そもそもは地元の復興を求める平和的なデモだった。きっかけは治安部隊の発砲だ」と説明した。「治安当局は取材陣のカメラを押収した」と当局説明への不信感を隠さない。

 住民は旧フセイン政権の犯罪を海外に発信する「宣伝塔」に使われている事実に反発している。「政治家は1年に1日だけ来て、空約束をするだけ。一つでも工場を作ってくれれば、若者が町を離れずにすむのに」。タクシー運転手のレブウェアさん(31)が住民の思いを代弁する。

 中心街のメーンストリートは未舗装のままだ。雷雨に見舞われたある日、道路は泥の川と化していた。<写真、アマンジュ・ハリル/写真・文、高橋宗男>

 ◇後遺症に苦しむ被害者

 ハラブジャ病院の一室に事務所を構えるクルド地区保健省の地区担当者、アコ氏(45)によると、化学兵器による犠牲者の総数は不明だ。多くの住民がイランに逃れたり国内の他地域に移住し、追跡が不可能だからだ。同氏は分厚いカルテのファイルを手に「私が把握しているだけでも300人が依然、後遺症に苦しんでいる」と語る。

 昨年末、急に変調をきたした被害者がいると聞き、救急病院を訪ねた。ハラブジャ近郊の村で教師をしている女性のタフフィヤさん(26)は突然の腎臓疾患に襲われ、回復の見込みはたっていない。事件当時は6歳。事件後18年以上も何の異常もみられなかったという。化学兵器との因果関係は未解明だが、ハラブジャの医師は影響があるのではと疑っている。

 「私たちの家族は事件から3カ月後、家財道具を取りにハラブジャに戻った。2晩過ごしただけなのに」。付き添う母ガフールさん(57)が、すがるようなまなざしで問いかけてきた。

 2007年9月20日

まぁこんなこと↓やってるから犯人すらいない事件になってしまったんじゃないでしょうか。
ラマダン元副大統領も処刑 イラク旧政権高官、4人目
http://d.hatena.ne.jp/navi-area26-10/20070320/1174394629

拙速の死刑執行、将来に禍根=フセイン時代の清算成らず−イラク

処刑により、審理中だった80年代末のクルド人虐殺事件での訴追は打ち切られる。また、90年のクウェート侵攻や、91年の湾岸戦争後のシーア派弾圧といった大きな事件は起訴すらされずに終わった。

『80年代末のクルド人虐殺事件』でアンファルとハラブジャ両方を指しているんでしょうね。

まぁ戦争中のイランにクルド人が味方していたとしたら、それを司法で十分に証拠を集めて裁けばよかったんでしょうけど、十分な正当性のある裁きが行われてないのは今の旧フセイン政権に対する裁判も同じなような気がします。