民主化旗手の輝き失った…人民戦線、露・サンクトペテルブルク

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サンクトペテルブルク市議会の入るマリインスキー宮殿。ソ連期にはレニングラードソビエト(市議会)と市執行委員会が置かれていた(遠藤良介)(写真:産経新聞

 「誰もマイクを切ろうとはせず、希望するすべての人に発言の機会が与えられた。議論のテンポは遅かったが、民主主義は過程こそが大事だと思っていた」

 マルタ会談での米ソ冷戦終結宣言(1989年12月)に先立つ6月17、18日。ロシア西部レニングラード(現サンクトペテルブルク)で行われた「人民戦線」の創設大会を、議長団にいたユーリー・ネステロフ(64)はこう振り返る。

 [フォト]レニングラードで1989年11月1日、数千人が集まった人民戦線派の集会

 会場は1千人以上の熱気に包まれていた。筋金入りの反体制派ではなく、普通の労働者や共産党員が次々とマイクを手に立った

 〈われわれは先進諸国の水準に照らし、相応の生活と政治的・市民的権利を保障する文明社会に生きたい。国とわが街の生活を左右する政治決定に参画したい。われわれの目的は市民の民主社会であり、真の民主政治と法治国家だ〉

 長い議論の末に採択されたマニフェスト(政策綱領)にはこんな文言が躍る旧ソ連の盟主だったロシアに初めて、「下から」の本格的な政治団体が誕生した瞬間だった。民主化に向けた政策目標を掲げ、ペレストロイカ(再建)推進を訴える人民戦線。その創設で先行していたのは、後にソ連から独立するバルト諸国くらいだったという。

 中心メンバーだったボリス・ビシュネフスキー(53)は「当地の民主化運動はモスクワよりはるかに強力であり、レニングラードには特別な役割があった」と誇らしげだ。

 始まりは、80年代後半、ゴルバチョフ共産党書記長が打ち出したペレストロイカである。その後、大衆運動という形で政治改革を支えたのはレニングラードの大衆だった。87年には知識人ら約200人が議論の場として「ペレストロイカ・クラブ」を結成したほか、環境や建造物保全に関する市民運動も芽生えていた。それらを政治団体として糾合したのが「人民戦線」だ。

 ビシュネフスキーは「自宅で自分たちの政策をタイプし、統制の比較的緩い“協力企業”に持ち込んで、ウオツカと引き換えにコピーしてもらっていた」と明かす。だが、当時の人々の目に共産党の行き詰まりは明らかで、もはや恐怖は感じていなかった。

 90年に行われたロシア人民代議員選挙とレニングラードソビエト(市議会)選挙では人民戦線派が大きな勝利を収め、市議会は同派が6割の議席を占める。人民戦線はソ連崩壊後の92年、新たに誕生した各政党に議員らが乗り移っていく中で解消され、「多党政治への準備」(ネステロフ)としての役割を終えた。

 元市議のアレクサンドル・ビンニコフ(64)は「モスクワは官僚的な都市であり、当時も今も近代化への原動力をもたない」と断じる。歴史的に「欧州への窓口」だったサンクトペテルブルクには、モスクワと異なる進取の気風が脈々と息づいているのだ。「むき出しの資本主義」が人々の生活を破壊した90年代、この地は欧州型の社会民主主義を志向する左派リベラル政党「ヤブロコ」の牙城としても異彩を放った

 それも2000年に、同市出身で元KGB旧ソ連国家保安委員会)諜報(ちようほう)員のプーチンが大統領に就任すると一変する。国全体が「安定」に名を借りた再強権化の奔流にのまれ、中央には「サンクト派」なる同郷者の一大派閥もできた。

 資金が投下されて外資の進出も活発化した半面、ヤブロコが市議会選からも完全に排除されるなど、民主化の旗手だったころの輝きはこの街から失われた

 ビシュネフスキーは「首都でないサンクトペテルブルクには、“内面的な自由”がある。だからプーチン崇拝は長続きせず、人々は必ず目覚める。新しい民主主義の波はきっと、またサンクトペテルブルクから起きるだろう」と力を込めた。=敬称略 (サンクトペテルブルク 遠藤良介)

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【用語解説】サンクトペテルブルク

 18世紀初頭、ロシアの西欧化・近代化を掲げたピョートル大帝が「欧州への窓口」として突貫工事で建設させた帝政時代の首都。欧州の建築様式、文化、思想などあらゆる文物がこの地からロシアに吸収され、ロシア革命(1917年)の発火点となった。バロックや古典様式の建築物、運河が非ロシア的な景観を形づくり、ロシアが最も誇りとする観光都市でもある。

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ロシア人も民主社会を求めているんですね。関係あるか分かりませんが
プーチン路線は正しい」 ゴルバチョフ氏が擁護
http://d.hatena.ne.jp/navi-area26-10/20070728/1185632065

原発事故「1日半知らなかった」…ゴルバチョフ
チェルノブイリの事が書いてあって

事故をきっかけに、「表現の自由の可能性が広がり、体制がもはや維持できなくなった」と指摘。「(事故が)5年後のソ連邦崩壊の真の原因になった」との見解を示した。

とあります。