マクナマラ氏死去、ベトナムの「沈黙」の裏にあるもの

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090806-00000613-san-int

 米国のケネディ、ジョンソン両政権で国防長官を務めたマクナマラ氏が先月、死去した。フォード社長、世界銀行総裁なども歴任したが、この人が歴史に名を残したのは何と言ってもベトナム戦争の遂行者としてだった。しかし、当のベトナムは奇妙なことに旧敵の死にほとんど沈黙を貫いた。

 ベトナム戦争は「マクナマラの戦争」と言われた。本人もそれを容認し、「勝つために、できることはすべてする」と豪語した。冷徹な頭脳による分析力と理解力には定評があった。敵の死者数と爆弾の投下量などに基づく「科学的手法」で情勢を判断し、戦争拡大政策を推進した。

 しかし米軍の増派と北ベトナム爆撃の強化にもかかわらず、戦況は好転しなかった。戦争の泥沼化とともに米国内では反戦運動が激化した。マクナマラ氏の息子も参加者の一人だった。自室には「敵」の解放戦線の旗を飾り、父とは何年も口を利かなかったという。

 当初の氏の自信は疑問に変わっていく。政治解決重視への政策転換を試みたが果たせず、在任7年後の1968年に国防長官を辞した。その後はベトナムについて沈黙を貫き、95年に出版した回想録の中で初めて自らと米国の「ひどい過ち」を公に認めた

 氏の死去を受けて米メディアにはさまざまなマクナマラ論があふれた。あるものは「もっと早く疑問を公にし、政策転換を促していれば犠牲を減らせたはずだ」と長い沈黙を告発した。一方で、遅れたとはいえ自ら過ちを告白した勇気を評価する声もあった。

 対照的だったのは相手のベトナムである。筆者の知る限り、公式の反応は外国通信社の求めに応じて出した外務省報道官の談話だけだった。「安らかに眠ることを祈る」。英語でわずか5語である。共産党の統制下にあるメディアにも、論評や寄稿などは見かけなかった。米国との間で余計な波風を立てたくないという共産党の判断だろう。

 ベトナム側のおそらく唯一の論評を掲載したのは米ニューズウイーク誌である。戦争中、外務省米国局で情報分析を担当したという筆者は寄稿の中で「マクナマラ氏にあまり怒りは感じない。(中略)戦争の遂行が氏の職務だった」と理解を示し、過去に拘泥しない姿勢を強調している。

 ホーチミン市の国際空港から市内に入る幹線道路には戦争中、マクナマラ氏暗殺未遂の罪で処刑された解放戦線工作員の名前が付いている。しかし、同じ市内の戦争証跡博物館を2年前に訪れた際に目にしたのは「ひどい過ち」を告白した氏の回想録である。悔い改めた氏をベトナムは評価する。氏は95年に訪越し、抗米戦を指導したボー・グエン・ザップ将軍に面会したが、敵意の無さに驚いたと氏は後で語っている

 ベトナムの寛容な姿勢はマクナマラ氏だけに限らない。米国の戦争責任の厳しい追及をベトナムは避けてきた。戦後復興のためには国交正常化を優先させる必要があったという事情がある。抑制した対応は中国、フランス、日本と繰り返し外国の支配を受けてきた歴史に由来するという見方もある。

 しかし、抗米戦でベトナムは300万人以上ものおびただしい犠牲者を出した。国民の間には「寛容」や「未来志向」だけではくくりきれないさまざまな思いが米国やマクナマラ氏に対し、あるはずだ。

 思いだすのは94年2月に米国が対越経済制裁を解除した際のハノイでの経験である。戦後20年近く続いたベトナム敵視政策の大転換とあって、公式の反応は歓迎一色だった。庶民の感想を知ろうと街中で何人かに話を聞いたが、その中に戦死した2人の息子を持つ72歳の老父がいた。2人は遺骨さえ見つかっていないという。口から出たのは「子を殺された親の気持ちがわかるか。アメリカ人を憎み続けてやる」という涙声だった。

 南北ベトナムを隔てた軍事境界線はかつてマクナマラ・ラインと呼ばれた。氏が死去した日とその2日前にはこの線の南北で不発弾の暴発事故があり、計6人が命を落とした。不発弾や地雷による戦後の犠牲者は42000人にのぼるという。枯れ葉剤の被害も深刻だ。「マクナマラの戦争」はまだ終わっていない

 マクナマラ氏は晩年、自らの反省を踏まえてあの戦争の実相を客観的に見つめ直そうとベトナム側との対話に取り組んだ。沈黙や建前の裏に、自分に対するどんな思いがベトナム側に隠れているのか。氏自身もそれを知りたかったに違いない。(在バンコク・ジャーナリスト 鈴木真)

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戦争には色々ありますよね。僕は過去のことにはあまり詳しくないので(他にも弱いところはありますが…)触れませんが、未来志向で行けたらと個人的には思うのですが…。

マクナマラ氏の名前は
冷戦時「非核宣言」に反対=核保有の可能性排除せず−外務省見解・外交文書
http://d.hatena.ne.jp/navi-area26-10/20081222/1229906327
で、出てきました。

また他のマクナマラの検索結果は
http://news-net.ddo.jp/cgi-bin/estseek.cgi?phrase=%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%9E%E3%83%A9&perpage=100&clip=-1&navi=0&attr=&order=_date_

この時期らしく日本と台湾の記事もあります。
ひと:酒井充子さん 台湾「日本語世代」の記録映画初監督

http://mainichi.jp/select/opinion/hito/news/20090807k0000m070125000c.html?inb=ra
 北海道で新聞記者をしていた98年夏、好きだった映画の舞台だった台湾を旅した。

 台北から電車とバスで1時間の小さな村で、年老いた男性に日本語で話しかけられた。「小学校でお世話になった日本人の先生に会いたい」。日本統治下で学校教育を受けた「日本語世代」だった。

 「日本人の恩師を思い続ける人が住む台湾って、どんな所なんだろう」

 帰国後、台湾の本を読みあさり、過去に無関心だった自分を恥じた。00年に退社し、新たに始めた映画づくりの仕事でも「忘れられた日本語世代」への思いが膨らんだ。

 08年までの7年間、50人以上に話を聞いた。完成した映画「台湾人生」には1920年代生まれ5人が登場。中学進学の学費を黙って出してくれた小学校の担任を慕い、毎年墓参で来日している男性。女性は日本への複雑な思いを「解けない数式のよう」と例え、「私は今の日本の若い人以上に日本人よ」と言い張ったビルマ戦線で日本兵として戦った男性は「日本に捨てられた」と訴える。いずれもよどみない日本語で、カメラに積年の思いをぶつける。日本語世代の高齢化は進む。公開前に亡くなった男性の最期の言葉は日本語だったという。

 戦争や日本統治の美化ではない。「日本人として生きた人たちの埋もれつつある人生の記録です」。歴史に翻弄(ほんろう)された人々の生の声は平和とは何かも訴えかける。【清水優子】

 【略歴】さかい・あつこ 山口県出身。東京・ポレポレ東中野(電話03・3371・0088)で上映中。札幌や大阪など順次公開。39歳。

毎日新聞 2009年8月7日 0時08分

【台湾有情】「日本語世代」の失望
http://d.hatena.ne.jp/navi-area26-10/20070406/1175857779
というのもありました。

日本語世代でいくつかBlogが引っかかります。
http://news-net.ddo.jp/cgi-bin/estseek.cgi?phrase=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E4%B8%96%E4%BB%A3&perpage=100&clip=-1&navi=0&attr=&order=_date_

とくに
むじな@台湾よろず批評ブログさん
いずれ死に絶える「日本語世代」に偏重し、戦後世代や民主化運動を軽視する日本の「親台ウヨク」の虚妄
http://blog.goo.ne.jp/mujinatw/e/3c0ed17435972271ae15e4a1b0459421
は一読に値するのではないでしょうか。